2011年4月29日金曜日

目指せ屋上!

物干し台設置!!!

先人の努力により宮古小学校避難所には、洗濯機をお届けしていました。

ところが、物干し台がなく干すところがないので、1週間以上たっても洗濯ができずにいたのです。


早速物資を調達し、本日、物干し台を運搬&設置。

本日より洗濯できるようになりました。

避難所の方々に、熱烈歓迎され、我々も嬉しかったです。

Hoda 記

2011年4月28日木曜日

一歩ずつ前進

いろんな試みを始めています。

まずは、”岩大(がんだい)”こと岩手大学の学生との混成チームでの活動。岩手大学のボランティアメンバーも先週から、ここYMCA宮古ボランティアセンターを拠点にしていますが、今までは僕らとは全く別行動でした。この理由は、僕らと一緒に活動すると、学生が僕らの活動に組み込まれてしまうことになり、本来の目的である「自己完結型」ボランティアができなくなるからという理由でした。

ただ、昨日の夜の2次ミーティングで、

・別行動をとるとニーズ調査が重複するなど被災者の迷惑になる
・学生だけのチームだと実施できる作業が限られる

といった問題点が提起され、今日から試験的に学生とクライマーの混成チームにしてみました。

成果はかなりあったと思います。まず単純に岩手大(10名弱~20名程度)とクライマー(10名~15名程度)のトータル人数で分担を考えられるようになったため、かなり多くの依頼に対応しやすくなりました。
さらに、クライマーボランティアと一緒に活動することで、やれる作業が大幅に広がりました。これは学生自身のスキルを上げるのと、満足度もかなり上がったと思います。
もう一点重要なのは、避難所ニーズ調査などで岩手大学ブランドが生かせるようになったことです。宮古市内では今までの諸先輩方の丁寧なボランティア活動のおかげで、かなりYMCA宮古ボランティアの評価は高く、信頼頂いていますが、それでも「YMCA」と名前を出しても怪しまれることがあります。そんなとき、岩手大学のゼッケンをつけた若者が横にいるだけで全く怪しまれません。


次に物資仕訳。ラックも3台購入し、物資は主にキッチンエリアに置くことにしました。すっきり見やすくなったおかげで、今日はかなりの数の物資がもらわれて行きました。物資の棚卸と管理、リスト作成など、元商社マンの手腕が最大限に発揮されました。今週末には物資は礼拝堂から完全になくなる予定です。



もうひとつ、小さい試みも。ここでは毎日のように新しいメンバーが来るので、正直なかなか全員の名前と顔が一致しません。そこで、”チェキ作戦”を始めました。来た方にはチェキで顔写真を撮り、名前と滞在期間を書いてもらい、ホワイトボードに貼っています。これで少しでもお互いの名前を呼びやすくなって短いながらも良いチームになれればと思ってます。


今日はうれしいニュースがひとつ。ここ数日床板剥がしやヘドロ出しなどをお手伝いしていた被災者の方がこちらに見えて一緒に食事をし、こちらで寝て頂けることになりました。避難所には知っている人がおらず震災後ずっと車の中で寝ていたそうです。家の復旧作業も一人で震災後ひたすら続けていらっしゃったので体力的にも精神的にも限界だったと思います。そんな中、ここで一緒に食事を取り、寝ることで少しだけでもリラックスできたのではないかと思います。

最後に、今日から堺YMCAより生駒さんがいらっしゃいました。似顔絵が上手で、かなりデフォルメして書かれますが、女性陣は大喜びでした。そのうち避難所で似顔絵PJもやりたいですね。

明日はさらに5名増えて、クライマーボランティア17名+岩手大7名+YMCAスタッフ3名の27名の大所帯になります。さていよいよコーディネーターの腕の見せ所です。

ボランティアは単なる引っ越し屋になってよいか

夜の懇親会での話。
「最近、単に便利屋として使われているのではないかと感じることがあり、自分の気持ちと葛藤することがある」
「男手が二人いて、車もあるが、次から次へと作業を依頼されるが、一見、被災者の方自身でできるのではないかと思う。単身高齢者世帯の方で、昼間も避難所から外出せず途方に暮れているような方をもっと見つけ出して支援すべきではないか。」
「支援が必要か必要でないかをどう判断するか。一見、男手がいるお宅でも引っ越し費用を負担することが難しい方も、高齢者でも裕福な人もいるかもしれない」

基本的には僕らは僕らを必要としてくださる人がいれば、その方の状況に関係なくお手伝いをするし、なるべく一人ではどうしようもできない単身高齢者世帯の方を優先する、という程度のルール決めしかできず、状況に応じてケースバイケースで判断するしかありません。

この判断には、判断するリーダーの感性が問われるもので、とっても難しいものです。

今日もボランティアが朝に一名新たに来て、夜に一名去って行きました。去って行かれた方は、最後のあいさつのとき、「ボランティアには何か被災者の力になりたいという気持ちもあったが、もう一方で、自分にとって得るものがあるのではないかという思いで参加したことを改めて認識した」と言っていました。僕らの活動は、支援している方が得るものよりも、僕らボランティアが得るものの方が大きいのかもしれません。



宮古駅までの送迎は恒例になりつつある、猫バスで。


(真野)

2011年4月27日水曜日

ヘドロ出しはまだまだ続く

震災から1カ月半経ちましたが、最近また床下のヘドロ出しの依頼が増えています。
おそらく津波で被害を受けた家財道具の部屋からの搬出が終わったので次は床板をはがしてヘドロ出し、ということかと思います。
しかも今日の現場は2か所とも、床板を一部剥がれているだけで、そこから床下にもぐってヘドロを出す作業で、かなり大変だったようです。


他にもフローリングの床板をはがして、ヘドロを出す作業の依頼も受けました。フローリング→コンパネ→断熱材と三重構造になっており、釘も出ていることから素人にはそれなりに危険な作業です。フローリングそのものはそんなに痛んでいないように見えたので、ご依頼主に、本当に剥がすのが必要か、建築士会の無料相談を受けてみるようお伝えしましたが、依頼したが混雑していていつになるか分からないので、と諦めていらっしゃるようでした。
本来は大工や引っ越し屋がやるべきとみられる仕事を頼まれることも多々あります。
日常を取り戻しつつある中で、本来”仕事として”大工や引っ越し屋がおり、ご依頼主にも支払能力がある時に僕らはどうすべきか、いつも模索しながら進めています。

物資の段ボール箱が積み上がっていましたが、今日待望のラックを購入し、明日からいよいよ陳列を開始します。陳列作業には教会の会員の方も手伝ってくださる予定です。
教会に間借りをしている僕らボランティアにとって、教会の方と一緒に共同作業できることはお互いを知る貴重な機会です。


今週土曜は岩手大の学生主催のお花見イベントです。被災者の方をご招待してマイクロバスで花堤でおでんなどをつつく予定です。
明日からは毎日新しい方が来られます。明日1名、明後日3名、金曜5名です。年齢に関係なく、経験者が新しい方に教えていく、良いサイクルができればと思います。


(真野)

2011年4月26日火曜日

地元学生の強み&各種プロジェクト始動

●昨日から岩手大学NPO(天気輪の柱)から18名も盛岡からバスでボランティアに来ています。朝10時にバスで教会に到着し、15時までみっちり活動しています。役割分担から、指示出し、装備準備などすべて自分たちでやっています。班ごとに経験者をリーダーとして、とても機能的に動いています。
最近の学生は侮れません。僕ら山屋もがんばらねば。

●今朝、震災1週間後から一カ月以上もがんばっていた森分牧師のお兄さんがとうとう別府へ帰りました。もっとも長くボランティアをしていたお兄さんの去り際はあまりにもさわやかでした。



●GWに向けて各種プロジェクトを進めています。
①まずは物資の仕訳、リスト化。先生と相談の上、教会食堂エリアにラックを設置し、人気物資を中心に並べることにしました。これでかなり物資を取りに来やすくなるはず。
②洗濯機プロジェクト:もあと6台。4月中にはめどをつけたいと思います。
ほかにも、絵本プロジェクト、広報みやこ配布プロジェクト、お花見プロジェクト等などまずは、スモールスタートからは始めよう、です。

●イベントもガシガシやります。
まずは4/30の花堤でのお花見。岩手大NPOが企画しているのでそれに日頃お付き合いのある被災者の方をお誘いする予定です。
5/3にはカナンの園主催のバザーが教会であります。先生お手製の絶品たこ焼きも食べられるかも!

明日から天気が心配です..

(真野)

2011年4月24日日曜日

GWのボランティア

今日YMCAから連絡がありました。ゴールデンウィークはボランティアラッシュが予想され、拠点となっている宮古教会の物理的なキャパシティーが心配であるとのこと。
そこで、「被災地にクライマーを送る会」では、でに参加表明されている方を除いて、ゴールデンウーク中の派遣はしないことに決めました。ただし、2度目または3度目で、コーディネーターのアシスタントができる方は検討の余地があると考えています。
参加を考えていた方は、ぜひみを後ろにずらして、ゴールデンウィーク明けにお願いします。

コーディネーターのアシスタントを希望する2度目または3度目の方の希望者は、
climber311★gmail.com(★を@に変更)  までおねがいします。


2011年4月23日土曜日

日常へ

明日はクリスチャンにとってはクリスマスよりも大事なイースター(復活祭)。震災後、支援物資が並べられていた壇上もきれいに段ボールを運びだし、床も雑巾がけしました。教壇もいつもの位置に戻して、明日のイースターを迎えられる準備ができました。

少しずつ教会も日常に戻しつつあります。

支援物資であふれ、寝袋が並べられる礼拝堂もまぎれもなく今の日常。
でも教会の信者の方はなかなか日常が戻らない生活の中で、日曜の礼拝だけは日常に戻したいという気持ちも少し分かるような気もします。


夜は19日間も(最長記録達成)ここでボランティアを続け、みんなの疲れを美味で癒し続けてくれた石関さんとの別れを牧師お兄さんのギターで終えました。


またぜひ宮古教会に来て、美味しいものを作ってくださいね。

(真野)

2011年4月22日金曜日

洗濯機の配布

2週間ほど前の話です。帰京の際に、現地の拠点となっている宮古教会の森分牧師より、1つ支援のお願いをされました。それは洗濯機を宮古に送ってくれないか?とのこと。


家の中まで津波が入ってきた人たちは、大部分の家財道具を失っている。生活再建のためには、新たに買う必要があるが、そのなかでも何よりもまず洗濯機が欲しいのだそう。

避難物資として衣類をもらっても、洗濯しなければいつかは着れなくなってしまいます。また、泥水を被ったとしても、洗うことで着れるものも多数あります。
そして現在避難所にある洗濯機は、一部は避難民で買ったものもありますが、数が圧倒的に足りないのです。
台数は、いくらあってもいいとのこと。余れば、遠方の避難所に提供することも可能だそうです。


こうして、東京に帰ってきてから洗濯機集めをはじめました。そして色々なところに声かけしたところ、なんと2日間で新品20台、中古10台、そして洗濯機を買って欲しいと30万円。
みんな助けたいと思っているんですね。その気持ち、しかと受け取りました。

翌週から、現地の仲間が、各避難所を回り、洗濯機が無くて困っている避難所に配布して回りました。回って分かったのは、ほとんどすべての避難所が洗濯機がなかったという話。少し前に新聞に、洗濯機がない避難所が150あると出ていましたが、実際はそれ以上の感覚です。

ボランティアで働く石関さんは、銭湯そばのコインランドリーで、コインランドリーのオネエサンに話を聞いてみたそうです。そうしたら、「いつもは満員で店内掃除やフィルタ掃除も間に合わない状況との事。今日は空いててラッキーですよ、天気も良いし、お金も掛かるから皆は手洗いとかしてるんじゃ?ないかな…」とも。
また、夜スナックに飲みに行ったメンバーは、スナックで津軽石から洗濯をしにきたおじさんと会ったそうです。「洗濯機が小学校に置かれるの? それは非常に助かるよ。今日来たのは心の洗濯のためだけど、衣類の洗濯だけのためにこうやって来なくてもすむしね。」


洗濯機を見て、集まってきます。


配送はこのポンコツで。

この日は津軽石小学校へ


被災者の方と接していて思う事は、少しでもまず前の生活に近付きたいと考えているということ。
まず生きるためのモノ、食料などが必要。
そして、次に生活するために必要なもの、例えば洗濯機。
で、最後に無くても生きていけるが『欲しい』モノ。
今は被害の状態により、個人個人によって2番めと3番目が入り乱れているような感じです。

今後現地のニーズは、多様化していくものと思われますが、支援物資として提供されにくいもので、現地からの要望に応じて、みんなが使用できそうなものを送ることで、現地の方々の助けになればと思っています。


(木下)

日曜日

ここは教会。毎週日曜日午前には礼拝が行われます。
日曜日になれば当然のごとく山に行っているクライマーも、この日ばかりはみんな礼拝に参加します。(もちろん自由参加です)

これは教会の2階から撮った写真。机とイスの配置がちょっとおかしいと思いませんか?
今、協会の礼拝堂はボランティア活動の拠点として使っていますが、
牧師先生(右列の真ん中あたりの青い服の人)は、ここが拠点になっていることもあり、あえてこのような配置でやりたいのだそうです。

2011年4月21日木曜日

とうとう帰って来たエッチー

大活躍、大人気だった大工クライマーのエッチー。
滞在を引き伸ばして、いつ帰ってくるのかと思っていましたが、
私の車で19日に帰ってきました。

ボランティアが現地で滞在日程を延ばしてしまうのって、あまり聞いたことがない。
そんなに居心地が良かったのか、それとも神経がそうとう図太いのか。

普通の人は真似をしないほうがよいです。
たいてい1週間もいるとおかしくなってきちゃうから。

2011年4月19日火曜日

教会の夜

支援ボランティアとして働く山屋ですが、現在、宮古教会で寝食を共にしています。
たいてい1週間も被災地という非日常的な現場で過すと、精神的に過敏になってしまうことが多いのですが、でも山屋はそんな中でも生活自体を楽しむことができる。これは非常に大切な要素です。
全ての山屋がそうだとは言い切れませんが、免疫が蓄積されているので、一般人より相当強いのです。
そんな彼らの最近の楽しみは、森分牧師のお兄さんが弾くギターに合わせて、歌う唄。
日々の疲れを取るため、たまにはちょっとだけお酒を飲むこともありますが、これで気分転換をして、明日の活動に備えています。


尾崎豊を熱唱する堀内さんと牧師のお兄さん。



現在、岩手大学の学生も2名泊まっています。
クライマーらしく、ロープワーク講習会なるものもやっているようです。
おっと、この結び方は刺激が強かったか? 鼻血を出してしまいました。

サクラ

遅まきながら宮古にも春が来ました。
クライマー集団で唯一の大工として働いていたエッチーの宮古最後の日、閉伊川の土手に咲く桜並木に行ってきました。宮古高校の横にあります。

ただいま7分咲き。週末には満開になるでしょうか?




2011年4月18日月曜日

宮古~釜石間の状況

4/17現在の宮古~釜石間の国道沿いの状況は以下の通りです。

・コンビニ:
津軽石~山田間に2軒(ファミマ、ローソン)
山田の南に1軒(ヤマザキ)

・ホームセンター:
宮古のみ2軒(ホーマック)

被災地ボランティアとしてのクライマー

「被災地にクライマーを送る会」の活動を始めて、もうすぐ1カ月になる。今、振り返ってみて「被災地ボランティアとしてのクライマー」の特徴、または強みとは何かを考える。
まずは自活力があること。何処でも寝れて生活できる。これは受け入れ側としては非常に重要なポイントだ。受け入れ側としては、せっかく来てもらっても、ボランティアの生活のお世話までしなくてはならないとなると、かえって面倒なのである。
次に問題解決能力があること。普段から山屋は、目の前に立ちはだかる問題を解決しながら山に登っている。しかも自分の力で、もしくは仲間と協力して。こういうことができるというのは、何もかも初めての被災地で十分に生かされるに違いない。しかも山屋は、「どこどこに行ってくれ」といえば、自分でそこまで行ってくれる。いちいち携帯で場所を教えなくても、自分でたどり着いてくれるのだ。これも現地に迷惑をかけない重要な要素だ。
団結力があること。被災地で初めて顔を合わせたメンバーでも、「おれたちはクライマーだ」という共通の意識がある。だから団結しやすい。共通の言葉を持っているのだ。まあ、個性の強い奴が多いので、送り出す側としては心配の種は尽きないけれど、今までを見ていると、本物の山屋は相手の個性を受け入れるだけのキャパシティーがあるのか、おおらかなのか、すぐに協力体制が築けるようだ。
精神的に強い。たいてい1週間も被災地という非日常的な現場で過すと、精神的に過敏になってしまうことが多い。でも山屋はそんな中でも生活自体を楽しむことができる。これは非常に大切な要素だ。全ての山屋がそうだとは言い切れないが、免疫が蓄積されているので、一般人より相当強い。ただ楽しみすぎて羽目を外さないかが心配ではある。

2011年4月17日日曜日

新戦力

17日から、岩手大学学生ボランティア団体「天気輪の柱」がYMCAのボランティアとして参加することとなりました。初日の17日の参加は、大学2年生から4年生の総勢17人。極道なオッサンばかりのクライマー集団と異なり、とにかく若い! 宿泊場所もなく、また余震が続き、停電もあるため、盛岡から毎日バスで通ってのボランティア活動です。

この日は、初回ということで、男女混成の2~3名グループで教会周辺のニーズ調査を実施。
わずか2時間程度で6件のボランティア依頼を集めてきました。
ボランティアリーダーとして、活躍する日も近そうです。

床下の泥さらい、食器洗い、側溝の掃除・・・依頼も様々です。
明日からは、貰ってきたニーズの作業をやっていきます。


岩手大学の17名と、佐久間、木下

2011年4月9日土曜日

津軽石&赤前(2011年4月2日、7日)

鉄筋コンクリートのアパートが根こそぎはがされて、横たわっていた。

何もない。何からすればいいのか。


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しかし、住民たちは前に進もうとしている。

1階がなくなった家の外に洗濯物が干されている。



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津軽石駅には宮古行の列車が止まっていた。

あと1駅が走れなかった。
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根こそぎはがされた線路。JRはすべてを復旧すると断言しているが、
ここまでの被害を見れば、そのまま復旧しないと疑心暗鬼になる住民の気持ちも分かる。


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2011年4月8日金曜日

宮古の街

少しずつ瓦礫が片付いてきました。
津波の傷跡も多いが、他の街と違い、海から遠い場所は変わらぬいつもの風景が広がっています。
そこでは震災前から普通の生活が営まれています。


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市場にいけば、豊富な食材が出迎えてくれる。種類も量も東京以上だ。

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その中に復興から取り残される老人たち。こういう人たちがいなくなってはじめて復興と言えるのでしょう。

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床板はがし作業をするボランティアの石関さん。地味だが、力と床板を壊さないような丁寧さが必要な作業。




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「出勤」準備中のクライマー集団

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現地では、日々ニーズも大きく変わり、多様化してきます。
その調整をするため、そしてボランティアセンターの運営方法について、毎日熱い議論が交わされます。

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お疲れのエッチー。ボラセン唯一の大工。東京に帰る日は決めていないとのこと。

困っている人たちがいる限り、ここに残り続けるのか?


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愛宕の春



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悲しすぎる…。
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YMCAの現地コーディネータ、内田氏。

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がれき場のピアニスト。捨てられたオルガンで曲を奏でる。

重機の音しか聞こえない街で、暖かい音色は心に響く。

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床下の泥さらい作業も終盤。

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瓦礫の街の中に、宅急便の車がやってきました。
震災前の日常生活が始まりつつあります。

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2011年4月4日月曜日

巨大防潮堤の街・田老(2011年4月3日)

4月になったが三陸には冷たい雪が降る。

すべてが流されたここでは、まだ立ち入り禁止のところも多い。
自衛隊の仕事はあってもボランティアが出来る事は無い。
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新しい生活も始まろうとしている。
10km離れたグリーンピアの敷地内では急ピッチで仮設住宅の建設が進んでいる。
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